赤ちゃんや幼い子どもの解剖はつらい。。
それはどの法医学者にとっても共通の感情だと思う。
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自身や自分の子供に置き換えて、多かれ少なかれ悲しみがやってくることはままあるが、
だからといって別に、
「ご遺体が歳を取っていれば、そのつらさが軽減される」
そんな単純な話でもない気がする。
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私は、小児の解剖のつらさは、
「亡くならなければなかったのか?」
「避けられた可能性があったのでは?」
この感情を強く呼び起こす事例が多いからだと思う。
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思わぬ事故、不幸なアクシデント、理不尽な殺人、そして時に原因不明の急死…。
病死を天命と捉えるなら、これらは全て避けられた可能性がゼロではないとも言える。(もちろん避けられないケースもあるとは思いますが…)
そこに前述の「“この先の長い人生”が潰えてしまった」という点に悲しさを感じてしまうように思う。
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さらにこの歳になってくると、両親の気持ちにも共感してしまうのもあると思う。。
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先日もSIDS(乳幼児突然死症候群)で亡くなったと考えられる児と向き合う機会があった。
語弊のある書き方になってしまうが、場合によっては、
「(ある程度原因の特定できることの多い)事故などの方が、親にとっては気が楽なこともあるのではないか?」
そんなことすら思った。
「解剖をしましたが、原因は不明です。」
それが残された両親を、どのような気持ちにさせてしまうのだろうか…。
そんなことを考えると、やはり解剖がつらくなってくる。。
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しかし、そんなことがあっても、医学的論理に反して、両親に沿った死因と判断するのが許されないのは当然。
“死因の説明”は遺族に寄り添っても、“死因の判断”は決してブレることがあってはならない。
どのような心理状況であっても、中立な立場での死因判断が求められるのが法医学者のまたつらいところである。。