いつ死ぬか?なんて分からない。
誰しも明日死ぬかもしれないし、このブログを読んだ次の瞬間に亡くなるかもしれない。
それは誰にも分からない。
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それでも大半の人が病院で亡くなる社会になって、世間の人達は、
「死ぬような時は、必ず何か変化があるものだ。」
と信じ切っているように思える。
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52歳になる独身の娘と2人暮らししていた76歳の男性。
身体はだいぶ弱ってきたけど、まだボケてないし、自分で一通りのことはできた。
献身的な娘もいるので特に不自由もなく、日々を過ごしていた。
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ある日、娘が友人と久しぶりの旅行に行くことになり、数日間家を空けることになった。
「食料も買い込んでいるし、数日くらいは大丈夫だよね?」
そう思いつつも、笑顔の父に見送られ、娘は家を出ていった。
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数日後、お土産を抱えて帰宅した娘が見たのは、トイレで意識を失っている父の姿だった。
救急車を呼んだが、既に死亡していた。
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解剖の結果、死因は虚血性心疾患だった。
どうやら、娘が家を出た日の夜頃に亡くなったらしい。
私はそのことを娘に伝えた。
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「そんなわけがない! だって私が出て行った時は元気だったんですよ!?」
「ちゃんと解剖したんですか!? 先生が何か見落としたんじゃないですか!?」
なかなか理解してもらえない。。
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何度も丁寧に説明をしていると、次第に娘から涙が流れてきた。
「私が出て行った日に亡くなったなんて、、、あんまりです…。」
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解剖からは、娘が不在であることと男性の死を結び付けるような所見は何もなかった。
つまり、“たまたま”娘が出て行った日の夜に、男性の虚血性心疾患が発症したというわけである。
それを伝えても、、、
「受け入れがたい…。」
「偶然にしても辛すぎる…。」
「旅行なんて行かなければ…。」
献身的に支えてきたからこそ、自分が不在だったからこそ、自分を責めてしまうのかも知れない。
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涙を流す娘を目の前にしていると、その気持ちは当事者でない自分にすら痛いほど理解できる。。
しかし、そんな娘に法医学者の私が言えるのは、
「貴方は悪くない。」
という言葉だけだった。